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本能寺の変考察

5月28日付 福屋隆兼宛 明智光秀書状について

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5月28日付 福屋隆兼宛 明智光秀書状について

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5月28日に伯耆国の国衆である福屋隆兼(彦太郎)へ、明智光秀が出したという書状について考えてみます。


この書状は桐野作人氏が著書『だれが信長を殺したのか(PHP新書)』の中で紹介した書状になります。

なぜこの書状が重要なのかというと、本能寺の変は様々な説が出ていて朝廷の黒幕説や秀吉黒幕説などがあります。

しかしこの書状が事実であれば、本能寺の変直前の5月28日時点で光秀は謀反を計画していなかったことになるのです。
つまり5月29日の信長の上洛を知って、襲撃することを決めたことになります。

多くの研究者が何年も主張してきた黒幕説が、この書状1枚で吹き飛ぶ破壊力があるのです。



ではこの書状の桐野作人氏の訳をご紹介しましょう。(昔から本能寺の変を勉強している方にとっては今更だと思いますが)

「(追伸)なお去年の春だったか、(家来の)山田喜兵衛まで御内状をいただき、いつもお気遣いいただき歓悦しています。

それ以来、便りができませんでした。遠く離れているので思うようにまかせず残念です。さて(信長が)山陽道に出陣するように仰せになったことについて、その方面でご入魂になれたら、まことに喜ばしく思います。南条元続が内々にお示しのとおり、これまたご懇意にされている様子、(私も)満足している旨よくよく(南条に)申し入れたいと思います。

したがって山陽道に毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が出陣するところとなり、羽柴秀吉と対陣しているので、今度の儀(出陣)はまず、その方面(備中)でつとめるようにとの上意です。着陣のうえ、様子を見て(方向を)変え、伯耆国へ発向するつもりです。その時は格別に馳走(尽力)されるよう望んでいます。

なお去年以来、そちらにご在城され、あなたのご粉骨、そして南条元続の二度のお働きはともかくご忠節が浅からぬ所です。詳しくは山田喜兵衛に申し述べさせます。」
【福屋金吾旧記文書】

この書状から、5月28日時点では光秀は伯耆国へ向かう予定だったことがわかります。

5月29日の信長上洛は、信忠すらも27日に知ったわけですから、周囲の人は知らなかったわけです。亀山にいる光秀ももちろん知らなかったでしょう。

この書状から背後に黒幕はおらず光秀一人で信長殺害を決定した、と桐野作人氏は考えています。
(もっとも、黒幕など協力者はいたが殺害の機会を伺っている最中だった、と考えることもできますけどね)

しかしこの書状は問題があります。
日付はあっても年次が書かれていないのです。

戦国時代の書状でよくあるパターンで、わざわざ年まで書かないことが多いようですね。(武田信玄の1572年の三河侵攻も、書状に日付しかないため議論になっています)

桐野作人氏は年次比例ではこの書状は1582年のものと考えるのが妥当と書いています。

確かに5月に山陽道で毛利軍と秀吉が対陣していて、前年の1581年に鳥取城を秀吉が攻撃した後、伯耆国の羽衣石城(城主南条元続)が吉川軍に攻撃されて防いだという事実があります。

1582年と推定しても違和感はありません。

しかし、このままでは自身の説が崩れてしまう研究者の藤田達生氏は必死に反論しています。この書状が事実なら彼の足利義昭黒幕説は不利になるのでしょう。

藤田達生氏はこの書状を前年の1581年5月28日のものだと年次比例しています。

その理由は、【信長公記】にこの1581年に毛利軍が出陣するとの噂が流れたと書いてあるから、だそうです。

しかしこの反論は間違いだと思います。

なぜなら【信長公記】には、
「八月十三日、因幡国とつとり表に至りて、芸州より、毛利・吉川・小早川、後巻として、罷り出づべきの風説これあり。」
と書かれています。

明らかに毛利軍出陣は8月に出た風説で、5月ではありません。また、鳥取方面に至って、安芸より後詰とあります。山陽道ではありませんよね。

もうひとつ藤田達生氏が指摘しているのが、【武家事紀】に収められている光秀書状です。

光秀は6月2日に美濃の大垣城の西尾光教へ味方につくよう書状を送っています。

この時の使者も、桐野作人氏の書状にある山田喜兵衛となっているのです。

山田喜兵衛は5月28日に京都亀山から伯耆国へ約200km移動することになります。京都へ戻ってくるには1週間はかかるでしょうから、6月2日に美濃大垣へ使者として向かうことはできない計算になります。

つまり、どちらかが偽文書と考えられるわけです。

光秀は6月2日に信長を討った後、各地の武将に同心を求めるのは自然な行動ですから、確かにこの書状もまた真実のように思えます。

【武家事紀】は江戸時代の1673年に成立していて、信憑性が低いと判断されている書状もあるようです。光秀が6月2日に大垣城へ出した書状が本物なのか、判断が難しいところです。

そこで調べてみました。山陽道に毛利軍が出ていて秀吉と対峙した年が他にないものか。

すると1578年の上月城での攻防が該当しました。

このときは毛利軍が織田方の上月城を攻撃するため、山陽道に進軍しています。秀吉も上月城にいます。この点は問題ありません。

信長はこのとき援軍派兵を決定しています。1578年4月29日に明智光秀・織田信忠・滝川一益らが出陣、5月6日に明石まで進軍しています。

しかしその後信長は出陣できませんでした。ちょうど出陣するときに京都は大雨となり、川が氾濫してしまったのです。
信長は先に派遣した明智光秀らを明石に留め、そのまま様子見となります。

そして結局6月16日に派兵は中止と決定され、軍は引き返すことになりました。

この引き返す前に5月28日が訪れています。このタイミングで光秀が伯耆国の福屋隆兼へ書状を出したとしましょう。

しかし、そうなるとこの前年の1577年に南条氏が織田のために尽力した、という記録がありません。光秀と福屋がこの頃から関係を築いていたのかどうかも不明です。(私が知らないだけかもしれませんが)

南条氏の尽力というのが判明しないので、今のところはやはり1582年の年次比例が妥当かな、と思います。

あとは【武家事紀】の光秀書状との審議になるでしょうか。

まだ検討は必要になりますね。

しかし、研究者の説というのは、たった1枚の書状で崩壊してしまう危険性があります。
今後新たな書状が発見されると、真実は絞り込まれてくるのでしょうね。

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