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徳川家康とその一行は『茶屋由緒記』によると6月2日に堺を出発。
飯盛山の辺りで京都から本能寺の変を知らせに戻ってきた茶屋四郎次郎と会い、信長が討たれたことを知ります。
『茶屋由緒記』にも家康はただごとではないという表情だったと書かれているので、さぞ驚いたことでしょう。
そして、枚方付近で家臣らと取り残された家康は、長谷川秀一の案内で伊賀越えルートで帰国することを決め、三河を目指します。
これが定説ですよね。
さてこの伊賀越えルートはいくつか説が出ています。
『石川忠総留書』、『武徳編年集成』、『徳川実紀』、『信長公記』、『新十左衛門末次京都所司代報告書』などの史料がよく研究されているところでしょうか。
順にそれぞれの記録をまとめてみましょう。
中でも最も信頼性があるとされているのは、『石川忠総留書』のルートです。
『石川忠総留書』(1650年までに成立)は家康一行の同行者だった大久保忠隣の子、石川忠総が親族から話を聞いてまとめた記録です。
通過した村名が細かく書かれていて、堺を出発してからは「平野」、そして「阿部」、「山ノ根キ」、「穂谷」、「尊念寺」、「草地(の渡し)」と続きます。
平野区を通り、「阿部」とあるので阿倍野区でしょうかね。他に似た地名はないように思います。
この記録だと家康一行は堺から大坂城(石山本願寺跡)へ向かって進み、淀川手前で飯盛山付近に近づいたと思われます。
東大阪市辺りを南北に走る、東高野街道は使用していないようです。
日付はなぜか6月3日の宇治田原城へ着くところから始まります。
6月3日の夜は小川城で宿泊(城内かどうかは諸説あり)、6月4日に小川城から一気に伊賀北部を通過して鹿伏兎峠を越え、伊勢四日市を経由して那古(長太)に辿り着きます。
海路が書かれていないのが残念です。
基本的にはこの『石川忠総留書』ルートが定説とされています。
『武徳編年集成』(1741年成立)の場合は、守口で変を聞き、6月2日は普賢寺谷で宿泊、3日に木津川を越え八幡村で宿泊、4日は丸柱宮内の館に宿泊、5日は鹿伏兎で宿泊、そして6日に伊勢白子から舟に乗り三河大浜へ到着します。
『徳川実紀』は『武徳編年集成』をもとに作成されたので、ルートは基本的に同じです。
しかし『家忠日記』には6月4日に松平家忠が大浜の町まで出迎えに行ったと記録しているので、6月6日到着は信じ難いですね。
『信長公記』のルートは独特です。
宇治田原越えは同じで、そのあと伊勢桑名で舟に乗って熱田へ着いたということです。ある意味現実的とも思えますが、このルートは他の史料では書かれていないために全く信用されていません。
『新十左衛門末次京都所司代報告書』(1650年成立)は興味深い記録です。
江戸時代に宇治田原城主だった山口秀康の家臣 新主膳正末景の息子が、父親の話を聞いて書いたものです。
『石川忠総留書』の石川忠総と同じパターンですよね。信憑性が高いと思います。
こちらのサイト様が読み下し文を掲載されています。
戦国浪漫
ルートはほとんど書かれておらず、山口城付近での記録になるのですが、わずかに時刻のズレはありますが、概ね『石川忠総留書』と一致しています。
巳の刻(午前10時頃。夏の時刻なのでもう少し早いかもしれない)に山口城に到着し、食事をして午の刻(午後12時頃)に出発したとのこと。
この『新十左衛門末次京都所司代報告書』が面白いのは、木津川を渡る場面が詳細に記録されていることです。
「サテ両人之者ハ渡シ場之川西ヘ乗越シ御跡ニサガリ申ス小者、中間、残ラズ川ヲ越サセ、此方へ乗リ返シ申ス間、穴山梅雪老渡シノ西表ニテ一揆ノ野伏共ニ取■■ギ■躰御座候、」
新主膳正末景が山口城から家康一行を助けようと駆けつけると、すでに家康は渡りきっていて、小者や中間(ちゅうげん)がまだ西の対岸に残っている状況でした。
(川越えで一番最後になるのは本当に危険だと思います。襲撃されても誰にも助けてもらえないですからね。やはり身分の低い者が最後に渡らされるようです)
そこで舟を出して彼らを助けるのですが、そのときに西側で別行動をとっていた穴山梅雪が一揆に討ち取られるような記録が書かれています。
一部文字が欠損しているようですが、この場所で討ち取られたと考えて問題ないでしょう。
ここまで穴山梅雪の最期を記録した書物は他にないので、大変貴重だと思います。
『新十左衛門末次京都所司代報告書』はネットで掲載された原文活字を読むしか確認できないので、もう少し公式に原本が公表されるとさらに信憑性が上がると思います。
こうしてまとめて検討すると、『石川忠総留書』が真実に近いのだろうと思いますが、まだ疑問点はあるのです。
『石川忠総留書』では伊勢に入ってから一度四日市へ向かい、その後長太まで南下します。
この記録だけ6月4日の移動距離が長いのです。
6月4日は小川城から長太まで約75kmを歩き、その上で海を渡って三河大浜へ着くのです。(大浜とは書いていませんが)
75kmは時速5kmでも15時間かかる計算になります。
ほとんど寝ずに早朝3時頃から出発したとして、午後6時に舟場に着くことになります。
ただそこから数十kmの海路ですから、大浜に着くのは夜中でしょうか。
本当にその日に間に合うのか、この点が大きな疑問です。
『家忠日記』に6月4日に大浜に到着したことが書かれているので、日付に間違いはないのでしょうけどね。
あの広い伊勢湾を人力で舟を漕いで数時間で渡れるものなのかと、不思議に感じますが…
『三河物語』では白子("しろこ"と読むらしい)で舟に乗り、到着は知多半島の大野と書かれています。
本能寺の変が松平家忠のいる深溝城へ届けられたのも、知多半島の大野から飛脚が来たと書いてあるので、大野も海上交通ルートの港だったのでしょう。
家康一行が白子から舟に乗って大野に上陸し、知多半島を横断して川を越え、大浜に上陸した、というルートも可能性はあるかもしれません。
海上ルートは明確な記録がないので、推測するしかありませんね。
もう少しで全容が見えてきそうなのに、歯がゆさの残る伊賀越え研究です。