[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
このサイトは移転しました |
本能寺の変で織田信忠が立て籠もった、二条新御所(二条御新造)の位置を確認しておきます。
明智光秀は本能寺を襲撃して信長が自害した後、信忠のいる妙覚寺へ向かいます。
なぜ信忠に逃げる時間を与えるような攻撃方法を行ったのかは疑問があります。
光秀は京都へ1万程度の兵で来ていたでしょうから、本能寺を囲んだ兵の一部でも妙覚寺に向かわせて攻撃してもよかったはずですが。
この辺りの行動に、計画性の無さを感じるところです。
本能寺が襲われると、信忠は妙覚寺の東隣りにあった二条新御所へ入ります。
この二条新御所は変が起きる前に信長が普請を行い、とても立派に造らせて誠仁親王に献上した御殿です。
そのため敵を防ぐにはただの寺院である妙覚寺より都合がよかったのでしょう。
さて本題ですが、この二条新御所の位置は誤って覚えてしまう人が多いようです。とはいえ私もネット情報から二条新御所はこの位置だった、と把握することができたのですが。
どうしてややこしいかというと、二条の名前がつくお城が複数あるためです。
現在の二条城は徳川家康が1601年に宿泊施設として建てたもので、戦国時代にはまだありませんでした。
他の位置にも二条と名前のつく石碑があり、現在の御所の西側にもあるようです。
しかし本能寺の変で信忠が立て籠もった二条新御所は、妙覚寺のすぐ東隣りです。(この妙覚寺も現在は移転しているのでわかりずらいのですが)
幸い地図では妙覚寺は地名として残っているので位置が特定できます。
これが二条新御所があったことを示す石碑です。(「http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.nijohdono.htm様よりお借りしました」)
このサイトだけでなく、多くのサイトでこの位置だと特定していました。
位置関係を地図でまとめておきましょう。
このような位置関係になります。
妙覚寺の規模は推定ですが。
当時はこの位置関係だったにもかかわらず、最近本屋で立ち読みした『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』副島 隆彦(著)には、信忠は妙覚寺から西側にある江戸時代に建てられた現在の二条城へ逃げ込んだと図で掲載されていました。
これはまいりますね。
研究者にも詳しくない方はおられるので、うっかり読んでしまった人は間違って覚えてしまうでしょう。
というわけで二条城は複数あってややこしいですが、信忠が立て籠もった二条新御所は、"妙覚寺の東隣り"と覚えておけばよさそうです。