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本能寺の変考察

山崎の戦い布陣図と合戦経過について

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山崎の戦い布陣図と合戦経過について

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(※画像は「攻城団」様よりお借りしました。大山崎町歴史資料館の『1996大山崎町歴史ガイドブック』に掲載されている布陣図だそうです)

今回は天正10年6月13日に行われた、山崎の戦いについて考えてみようと思います。


定説では山崎の戦いはこの図ような布陣になっています。

この布陣の基になっているのは、秀吉による10月18日付の書状になりそうです。

この書状によると「道筋(街道沿い)は高山右近、中川清秀、堀秀政が切り崩し」とあり、川沿いは池田恒興、秀吉本隊の中村一氏ら、山の手は羽柴秀長、黒田官兵衛となっています。

疑問があるとすれば、この「山の手」がどの位置を指しているか、です。

本当に天王山の頂上辺りまで登ったのか、山頂までは登らず山沿いを通ったという意味なのか…この点が明確になりません。

『甫庵太閤記(山崎の戦いから約40年後の1625年に成立)』を読むと天王山に登って堀秀政が明智軍の松田隊と戦う様子が書かれています。

松田隊が山頂から鉄砲攻撃を行うため登り、堀秀政がそれを防ぐために登ったと書かれています。

特に『川角太閤記』では合戦の勝ち負けは天王山を取るかどうか次第、という内容が書かれていて、鉄砲隊が山頂に登り戦います。

おそらくその影響を受けてか、『山崎合戦記』でも同様のことが書かれていて、堀秀政が山頂で明智軍を撃退しています。

ここで考えられることは、

(一)、羽柴秀長・黒田官兵衛は山沿いを進んだ+堀秀政は天王山に登って交戦した
(二)、羽柴秀長・黒田官兵衛は天王山に登って交戦した
(三)、羽柴秀長・黒田官兵衛は山沿いを進んだ(誰も天王山に登っていない)

という3パターンになるでしょうか。

(一)の、堀秀政が天王山に登ったことは秀吉書状から否定されるので、創作ということになります。

こう考えると『甫庵太閤記』の信憑性が下がり、天王山での交戦自体も信用しにくくなります。

結論としては、一次史料に該当する秀吉書状、フロイス日本史、惟任退治記に従うと、天王山での戦いは一切書かれていないため、「(三)、羽柴秀長・黒田官兵衛は山沿いを進んだ(誰も天王山に登っていない)」が正しいことになります。

と結論を出したものの、
「一次史料では単に天王山の交戦を細かく記載しなかっただけかも」

という気持ちもわずかに残っています。小瀬甫庵がオリジナルで書いた部分は全て創作、とも断定できませんからね。基本的には真実味は低い、ということでしょう。

ところで、布陣図といっても山崎の戦いはこの布陣の通り両軍が配置されて、合戦スタート!となったわけではないようです。

フロイスの記録によれば高山右近・中川清秀・池田恒興の3隊がまず明智軍と交戦し始めます。

そのとき、秀吉は南に4里(約12km)も離れた場所にいたのです。(秀吉は4里後方ですが、山崎からその秀吉の地点までの間には秀長や黒田官兵衛が着陣していたと想像します)

秀吉は淀川を越える織田信孝を迎えるため、高山右近らを進軍させておいて、自らは富田辺りにいたようです。これは秀吉書状でも同じことが書かれているので事実なのでしょう。

そうなると、高山右近ら3隊が明智軍と合戦を始め、その途中に秀吉本隊が到着した、という流れになりそうです。

『フロイス日本史』では高山右近ら摂津衆の攻撃だけで明智軍に勝利したような書き方ですが、秀吉本隊も到着して合戦に合流したのではないでしょうか。

明智軍が敗走して光秀が勝竜寺城に立て籠もる経過は、どの記録も同じような内容だと思います。

最後に光秀が農民に討たれた位置は、書物によって少し異なっています。

『甫庵太閤記』では小栗栖で百姓に狙われ自害した、となっていて、『兼見卿記』『言経卿記』ではいずれも醍醐辺り、と書かれています。京都へは醍醐で亡くなったと噂が出ていたようです。

当日に情報をキャッチした公家衆の「醍醐」の方が信憑性は高いですが、地図で確認しても「醍醐」と「小栗栖」は近い場所なので、だいたいこの辺りが最期だったのだろうと思われます。

当時は巨大な巨椋池が醍醐の辺りまで広がっていたらしいので、光秀や明智軍の兵が通る道は限られていたように思います。

落ち武者狩りに遭遇する確率は、非常に高かったでしょうね。

坂本城へ逃げのびたとしても、秀吉軍に攻撃されてしまい、光秀の運命は変わらなかったでしょう。

この一戦は後がない、絶対に勝利するしかない戦い。そう考えると山崎の戦いも天下分け目の戦いと言えます。

以上、山崎の戦いを研究してみました。

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