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本能寺の変考察

【本城惣右衛門覚書】について

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【本城惣右衛門覚書】について

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本能寺の変で唯一現場にいた兵士が残した記録として有名な、【本城惣右衛門覚書】について考えてみます。


【本城惣右衛門覚書】は丹波の国衆に仕えていた本城惣右衛門という人物が、晩年になって親族向けにまとめた記録だそうです。

本能寺の変からは数十年が経過しているので、信憑性を疑う意見もあります。

しかし本人にすれば一生に一度の出来事ですから、私は記憶に大きな間違いはないだろうと考えます。

この記録には斎藤利三や明智秀満が登場するなど、とてもリアリティがあります。

しかしこのような貴重な史料にもかかわらず、最も重要な本能寺襲撃部分については肩透かしを食らうような内容なのが残念なところです。

というのは本城惣右衛門が本能寺へ入ったときは周囲は静まり返っていて、一部の敵を討ち取った、という内容くらいしか書かれていないからです。

本城惣右衛門は自分が一番乗りだ!と強調しています。
状況から早い段階で入ったようには読めますが、信長のいる堂ではない雰囲気です。

ウィキペディアに現代語訳が出ているのでご紹介します。

「明智が謀反をして、信長様に切腹させたとき、本能寺に我らより一番乗りに侵入したというものがいたらそれはみな嘘です。 その理由は、信長様に腹を切らせるとは夢にも知らなかったからです。


その時は、太閤様が、備中に毛利輝元殿を討ちに侵攻していました。 その援軍に明智光秀が行こうとしていました。 ところが山崎の方に行くと思いましたのに、そうではなくて京都へ命じられました。 我らはその時は家康様が御上洛しておられるので、家康様を討つとばかりに思っていました。 (目的地の)本能寺という所も知りませんでした。


軍列の中から乗馬した二人がおいでになった。誰かと思えば、斎藤内蔵助殿の御子息と小姓でした。 本能寺の方に行く間、我らはその後に付き、片原町へ入っていきました。 そして二人は北の方に行かれた。我らはみな堀際へ東向きに行きました。 本道へ出ました。
その橋の際に人一人がいたので、そのまま我らはその首を取りました。 そこより(本能寺の)内へ入りましたが、門は開いていて鼠ほどのものもいませんでした。


先ほどの首を持って内へ入りました。 おそらく北の方から入った弥平次殿と母衣衆の二人が、「首はうち捨てろ」とおっしゃるので従い、 堂の下へ投げ入れ、(堂の)正面から入りましたが、広間にも一人も人がいないでした。
蚊帳が吊ってあるばかりで人がいません。


庫裏の方より、下げ髪の、白い着物を着た女一人を我らは捕らえましたが侍は一人もおりません。(女は)「上様は白い着物をお召しになっています」と申しましたが、それが信長様を指すものだとは存じませんでした。 その女は、斎藤内蔵助殿に渡しました。

(信長様の家臣である)御奉公衆は袴に片衣で、股立を取り、二三人が堂の中へ入ってきました。 そこで首を又一つ取りました。 その者は、一人奥の間より出てきて、帯もしていませんでした。 刀を抜いて浅黄色の帷子を着て出てきました。


その時に、かなりの人数の(我らの)味方が入ってきました。 それを見て敵は崩れました。 我らは吊ってある蚊帳の陰に入り、この者が出てきて通り過ぎようとしたときに後ろから切りました。
その時の首と(先に寺の門前で取った首)で二つ取りました。褒美として槍をいただきました。 野々口西太郎坊の配下にいたときのことです。」

これが全文です。

研究者によってはすでに信長を討った後の話だろうとか、信長のいる堂ではない離れた場所、などの意見があるようです。

この記録ではまだ火の手は上がっていないので、信長を討った後の話とは考えにくいでしょう。

やはり信長がいた位置より遠い門から入ったのではないかと推測します。

しかし本城惣右衛門は火が出るところまで目撃したはずですから、最後まで記録を残して欲しかったものです。

もしその部分の記録があれば、さらに詳細な襲撃内容が判明したと思うのです。非常に惜しい記録です。

この【本城惣右衛門覚書】が研究として役立つのは、本能寺へ向かう途中に家康が京にいるので(堺へ行ったことは明智の兵たちは知らなかったようだ)、家康を討つのではないかと思った、という部分でしょう。

下級武士や庶民は信長が家康を討つかもしれない!と疑っていた可能性はあるでしょうね。
なにせ兵を連れず、重臣だけで上洛してきたわけですから。

私は【家忠日記】の6月3日条から信長による家康討ちはない、との考えですが、それでも当時の庶民がそう考えていても不思議ではありません。

【本城惣右衛門覚書】はそういう推測ができる史料です。

本能寺の襲撃については斎藤利三らがいた証明にはなりますが、【信長公記】の記録から当然現場にはいたでしょうし、これといって特別得るものがない史料なのが残念です。

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