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最近、本能寺の変は明智憲三郎氏の説が認知されるようになってきました。
信長が家康を殺し、徳川領へ攻め込む計画だったという説。
あまり戦国を知らない人でも興味を引くのは当然だと思います。
しかし、この明智氏の説は間違いがあります。
結論を言うと、移動時間が考えられていないので成立していないのです。
私は確証できる史料や推論が揃うのであれば、家康討ちがあったと受け入れるでしょう。
しかし説を信じるとか批判する以前に、時系列が合わないので成立しないのです。
にも関わらず、この説が近日コミックとして発売されるとのこと(藤堂裕『信長を殺した男』2017年5月発売)。
この説が世間に広まるのは好ましくないので、このブログだけでも誤りを指摘しておきます。
『織田信長四三三年目の真実』と『本能寺の変431年目の真実』。(431年目の真実の方に全て書かれています。四三三年目の真実はほとんどが信長についてページを割いています)
まず、明智氏の説を整理しておきましょう。
<明智憲三郎氏の説>
(まずは『信長公記』による流れ)
1582年5月17日、信長は安土城で家康を接待している最中に、備中高松城を攻撃中の秀吉から援軍要請が届きます。
信長は堀秀政・明智光秀・細川忠興・池田恒興・塩河国満・高山右近・中川清秀へ出陣を命じ、それぞれ自国へ戻り出陣準備に入ります。
5月29日(この月の末日)の夕刻、信長は安土城から上洛、小姓衆20~30人を連れて本能寺へ入ります。京都を遊覧していた家康一行は昨日に堺へ向かっており、この29日に堺へ到着します。
(以下、明智氏の説)
明智氏の説によると、信長は本能寺へ入った5月29日、家康の殺害と徳川領侵攻のため明智光秀・細川忠興・筒井順慶、そして堺にいる家康一行に「6月2日に本能寺へ出頭せよ」と命じたとのことです。
信長が明智光秀・細川忠興・筒井順慶の三名を選んだのはこの年3月の武田討伐に従軍して徳川領を確認しているから、という理由だそうです。
そして家康が上洛したら、茶器鑑賞をさせている最中に明智光秀の軍が襲撃して家康一行を全員殺害するとのことです。
(信長は九十九髪茄子など名物茶器が破壊されるのはかまわないということでしょうか。まあ結果的に焼かれることにはなりますが。しかし国内の希少価値の高い宝物の相当数がここに集まっているんですけどね。)
家康を討った後は、筒井順慶・細川忠興の軍が来て明智光秀の軍に合流、この3部隊で徳川領へ侵攻して一気に徳川領を制圧するとのことです。
しかし、この信長が出したという上洛命令に、"誤り" があります。
以下に詳しくまとめてみます。
<家康が6月2日に上洛できない>
『茶屋由緒記』では家康一行は6月2日に堺を出発していますが、本能寺までは約60kmの距離があるため、当日に到着するのは困難です。
本当に命令が出ているなら、同行している織田家の長谷川秀一が2日朝に上洛できるよう前日から移動させています。
6月1日の朝に堺を出発して伏見などで一泊、2日午前に上洛という行程になると思います。それでも1日40kmは進まないといけないでしょうから、ハードな行程になると思いますが。
このように家康一行は6月2日朝に出発しても間に合わないのです。
家康はその数日前、同行していた信忠が父が上洛するなら留まりたいと言って別れることになりますが、この時点で家康は信長が上洛することを把握します。
そのため堺での予定を消化して京都へ挨拶に向かったのが真実だと考えられます。まあ定説通りですね。
<細川忠興が6月2日に上洛できない>
細川忠興のいる丹後宮津は京都からルート計測で約110km離れているため、5月29日夕刻以降に出された上洛命令が届くのはおそらく6月2日。
(使者の移動距離をよく調べていますが、だいたい1日50~60km程度です)
翌日6月3日に細川軍が出陣できたとしても、軍隊の行軍距離は1日約30km前後なので京都到着は6月6日頃です。6月2日の到着など不可能です。
しかも梅雨で雨の記録が多いこの時期(新暦では7月初旬)、100kmの山道はぬかるんで1日30kmも移動できない可能性があります。
雨で行軍を中断する記録はよく見かけるので、悪天候での行軍は難しいのです。
そもそも100km先の遠方に、明後日にこちらへ到着せよというような命令を当時の人が出すことはありません。到着できないですから。
一次史料ではありませんが、『細川忠興軍功記』(忠興の死後約20年後の1664年成立)には6月3日に忠興が備中高松へ向かうため城を出たことが書かれています。
この『細川忠興軍功記』には犬堂という場所へ出たことが書かれていて、調べてみると犬堂は宮津城から備中へ向かう道にありました。備中で摂津から進軍する織田軍と合流する予定だったのでしょう。
<細川忠興だけ以前に招集命令が出ていた?>
では細川忠興だけはもっと以前から招集命令が出ていたと考えることもできます。
例えば細川忠興だけには5月25日くらいに命令が出ていれば、移動日が確保できるので6月2日に到着することができるわけです。(それでも毎日雨なので厳しいかもしれませんが)
ところが信長が安土城から丹後の細川忠興へ命令を出す場合、その使者は京都と亀山城を通るわけです。それなら別々ではなく同じ一人の使者に3ヵ所に伝えさせますよね。
もし5月26日などに家康が招集命令を受け取っていたとすると、今井宗久の日記と辻褄が合わなくなります。
『今井宗久茶湯日記書抜』5月29日条
「徳川殿堺ヘ御下向ニ付、爲御見廻參上、御服等玉ハリ候、来月三日、於私宅御茶差上ベクノ由申置候也」
今井宗久は「…服などをいただいた。来月3日、自宅で茶を差し上げることを伝えた。」と書いています。
この時の会話では茶会の話がまとまったから、「来月三日」と日付まで書いてメモしているのです。6月2日の招集命令が出ていたなら家康は誘いを断っているでしょう。
<筒井順慶は西国出陣をしている>
大和郡山の筒井順慶は信長からの西国出陣命令を受け、『多聞院日記』によると5月27日から6月1日まで参籠(戦勝祈願)をして翌日6月2日朝に出陣しています。
京都までの約45kmは2日間行軍の距離なので到着は6月3日でしょう。これは信長が発言した6月4日の西国出陣という日程と合致します。
筒井順慶も6月2日の上洛命令に従った行動はしていないことがわかります。
もし筒井順慶と細川忠興が徳川領侵攻部隊なのであれば、同日に合流できる命令が出ているはずです。
しかし細川忠興は6月3日には到着できません。4日でも不可能です。この点からも説が成立していません。
光秀は信長父子を討った後の6月2日昼頃、明智氏の書籍には「筒井順慶と細川忠興がいくら待ってもやって来なかった」と書かれていますが、2日昼に到着できるはずがありません。一昨日に出た命令では両軍が到着できないことは光秀にもわかるはずです。
このように移動時間を計算せずに説が立てられているため、時系列がバラバラになっています。
従って信長はこのような上洛命令を出していない、ということになります。
<家康も信長から西国出陣を命じられていた>
上洛命令どころか、信長は家康にも西国出陣を命じています。
(国立国会図書館デジタルコレクションより)
『家忠日記』6月3日条
「三日、京都酒左衛門尉所より家康御下候者、西国へ御陣可有之由申来候、さし物諸国大なるはたやミ候て、しない成候間、其分申来候」
この記録には家康が帰国後に西国へ出陣すること、諸国(織田の各国部隊)は大きな旗指物は使っておらず「しない」になっているとの注意が、京都にいる酒井忠次から三河の松平家忠へ届いています (おそらく5月末頃の家康一行が京都から堺へ向かう前に出された命令) 。
(※「しない」は小型で柔らかくしなりやすい旗を意味するのだそうです)
このように、実際には信長は徳川家にも毛利攻めの加勢を命じていたわけです。ちなみに5月7日条には信長が甲州征伐後に徳川領見物を行なった際のお礼として、三河・遠江の国衆に兵根米を渡しています。最期まで信長と家康の関係は良好だったと考えます。
<信長はなぜ少人数で本能寺に入ったか>
「信長は家康を油断させるため本能寺を手薄にした」
幾度となく聞いたこの言葉ですが、信長はお伴が少ない上洛を何度も行なっています。
『信長公記』には「小姓衆5、6名」や「馬廻りのみ」で上洛したとの記載や、『言継卿記』『兼見卿記』でも「少人数」、「小姓衆と馬廻り」で上洛した、などと書かれています。
基本少人数で動く信長なので、20~30名を連れた上洛に不思議はありません。
<信忠討ちは書いていない>
明智氏の説によると信忠を討つのは家康の役目だったそうです。しかしどこで家康一行40名が信忠を襲撃するのかは今回も書かれていません。
家康一行が信忠を襲撃したら、家康らは謀反人となりその情報は早馬で一気に伝わります。
伊賀越え開始地点の山口城は当然封鎖されます。家康ら40名は徒歩ですよ。誰がこんな計画を立てますかね。
光秀は信長を討ったあと、徳川家とともに政権運営を行う予定だったそうです。
であれば、家康が100%脱出して帰国できる計画を立てない限り、光秀はGOサインを出せません。さてどんな脱出計画を立てて光秀が許可をしたのでしょう?
そもそも信忠は織田家当主です。一人で家康一行について来たわけではなく当然護衛がいます。どうやって襲撃するのでしょうか。
ここを書くとトンデモ説の仲間入りが確定するので書けないのでしょう。
<まとめ>
以上、明智氏の説について誤りをまとめました。
研究するのであればまず史料という情報を集め、それぞれを関連付け、全体をまとめていくことが重要になります。
6月2日の朝、家康は堺にいたという記録があります。信長が「6月2日に上洛せよ」と命令を出したのでは辻褄が合わないのです。堺と京都は数km程度しか離れていないと思っているのでしょうか?
細川忠興も5月29日の発令では6月2日に京都へ到着できません。
この間違いのために全ての時系列がズレてしまっています。
「SEによる歴史捜査」とアピールされていますが、取り消された方がよいと思います。
移動時間を考えていなかったというのはさすがに恥ずかしいでしょう。